GMOペパボ株式会社取締役CTO、ペパボ研究所所長のあんちぽです。この度、北陸先端科学技術大学院大学(以下、JAIST)より博士(情報科学)の学位をいただきました。このポストでは、経緯について簡単に述べた後、面接等でよく話題に上がる社会人大学院生としてのQ&Aについて紹介したいと思います。
博士研究および博士論文について
博士研究では、「IoTシステム開発の複雑さを低減するための統合的アーキテクチャ」と題した研究を博士論文としてまとめました。公聴会での発表スライドを以下に開してあります。
発表スライド: IoTシステム開発の複雑さを低減するための統合的アーキテクチャ
IoTシステムが今後ますます重要になっていくことは論を俟ちません。IoTシステムは一般に、デバイスの設置される物理空間のみならず、クラウドやエッジのような計算空間との協調によって構成されます。また、物理空間では計算空間とは異なる様々な制約や変化し続ける要求に対応する必要があります。そのため従来、IoTシステムは様々な技術要素によって異種混合的に構成されてきました。一方で、情報技術のこの数十年を振り返ってみると、異種混合性をなんとかして統合的に扱おうとする歴史であったともいえます。そこで、本研究では、IoTシステムを統合的に設計・開発可能な統合的アーキテクチャを提案しました。内容については、スライドや後日公開される博士論文をご参照ください。
博士号を取得するまでの経緯
なぜ大学院に通い始めたのかについては後述します。ここでは客観的な経緯についてまず述べます。僕自身の個人的なプロフィールについてはホームページをご覧ください。1999年に法学部を卒業した後、市役所勤務を経てあれこれあってWebエンジニアになり、今はCTOとして仕事をしています。
2020年4月にJAISTの東京サテライトで博士前期課程に入学しました(研究室は、ご紹介いただいて篠田研を選びました)。2019年末の受験当初はまだコロナ禍が始まっていませんでしたが、その後、4月以降はリモートで学業を行うこととなりました。この辺りは同時期の一般の学生と変わらないところではありますが、社会人大学院生としては、リモートで単位を取れるのはありがたいことではありました。
修士時代には、情報処理学会のソフトウェア工学研究会での学会発表(IoTデバイス内アプリケーションの開発効率向上のためにコードの変更を動的に適用する方式の提案と実装)、インターネットと運用技術シンポジウムでの採択・発表(IoTシステムの双方向データフローにおける設計と実装の複雑さを解消する手法の提案)を行いました。後者については、優秀論文賞および優秀プレゼンテーション賞を受賞しました。
2022年3月に優秀修了として博士前期課程を修了するとともに修士(情報科学)をいただき、そのまま4月から博士後期課程に進学しました。まず、情報処理学会論文誌に「Pratipad:IoTシステムを単一のプログラミング言語で統合的に構築できるデータフロー基盤の提案」を投稿、採録されました。また、国際会議WF-IoTで採択され、Dynamic IoT Applications and Isomorphic IoT Systems Using WebAssemblyというタイトルで発表を行いました。
博士後期課程3年度の6月頃から論文の構想・執筆に取りかかりました。既報の論文をまとめて3題噺にするとともに、それを通貫するストーリーを立てて、一本の論文にまとめ、12月の予備審査、2月の公聴会を経て、3月に学位記をいただくに至りました(博士論文執筆の過程については、Xの「#あんちぽ博士論文」タグに経過をまとめています)。まとめると、2年で修士号を、その後の3年で博士号を取得しました。
その他、研究に関連する活動を含めてあれこれやってますので、ペパボ研究所の成果をまとめたページや個人のプロフィールページをご参照ください。
頻繁に質問されることとそれらへの回答
社会人大学院生として活動していると、動機や実態について問われることが多くありました。採用面接やメディア等のインタビュー、記事執筆のご依頼、イベントへの登壇、個人的な相談など、本当に様々です。ここでは、頻繁に質問いただいたことに対する回答をあらためて文書として残しておくことで、後学の方々のお役に立てるようにしておきたいと思います。
なぜ大学院に進学したのですか?
大学院に進学したのは、端的には、研究所の活動において自分がボトルネックとなることを低減したかったからです。
GMOペパボ株式会社では、2016年にペパボ研究所という企業内研究機関を設立しました(その実態は、僕が管掌するCTO室研究開発チームという組織です)。メンバーが増え、研究のレベルが向上するにつれ、ジャーナルや国際会議への投稿が増えていきました。僕自身はエンジニアとしての経験はありますが、研究という意味では業績はありませんでした。そうなると、研究所のディレクションはできても、一定のレベル以上のアカデミックなアウトプットについて有効なレビューをすることは難しくなっていきます。サッカーをまったくやったことがない人が監督をするのは、可能ではあってもあるレベルを超えることは難しいだろう、みたいなことです(多分)。
そのため、プレイヤーとして一定の実績を積むことで、自分自身が組織の成長に対するボトルネックとなることを低減しようと考えました。そのためには、学位を取得するというのは(十分であるかどうかはともかくとして)わかりやすい目標ではあります。なぜなら、博士論文を書くまでの過程でジャーナルや国際会議などを通過する実績を出す必要が必然的に生じるからです。そこで、博士号の取得を目指して、前述した通り大学院へ進学しました。
個人的な学位取得へのこだわりみたいなのは特にありません。やらないで済んだのであれば、こんな大変なことなど自分から進んではやらなかったでしょう。必要が生じた結果、責務を果たすために行動を継続し一定のことを成せたのは、周囲の方々のお力添えあってのことです。ご支援くださった方々にとても感謝しています。
大学院への進学を考えているのですが、どういう基準で進学先を選びましたか?
まず、(1)情報科学の博士号を取得でき(つまり研究を主とする大学院で)、(2)都内にキャンパスがあり、(3)主な活動が土日で済むという大学院の選択肢は、少なくとも2020年当時はありませんでした。東京都内だと、僕自身も通ったJAISTの東京サテライトぐらいではないでしょうか。その意味では、特に選ぶという感覚はなかったです。自ずと決まりました。他の学問だと選択肢があるのかもしれません。また、博士後期課程から進学するということであれば、通学の必要がほぼないことが多いでしょうので、選択肢は大きく広がります。
研究室については、知人からの紹介で決めました。その方を信頼しているので「あんちぽさんにはここがいい」というのをそのまま受け入れたということもありますし、篠田教授の業績の一端にも触れていたので、迷いはありませんでした。そういう知り合いを持てるよう日頃から行動することが大事であるとはいえるかもしれません。
昨今「学び直し」という言葉が流行っています。とてもいい傾向だと思います。一方で、そのために大学院へ進学するということはあまりお勧めしません。そこでイメージされている「学び」と研究を主とする大学院での実態とには、大きな乖離があろうからです。詳しくは「エンジニアのリスキリングに「院進」は正しい選択か。 46歳の院生・栗林健太郎が語る就学の意義」という記事にかきましたので、ご覧ください。
博士号を取るのが目的なら博士後期課程から進学する選択もあったのでは?
「博士後期課程を修了し、博士(情報科学)の学位を授与されました」を書いたペパボ研究所の三宅さんの例のように、修士を飛ばして博士後期課程に進学して学位を取得した例もあります。知人にもそういう人が何人かいます。すでに研究実績があり、研究テーマが固まっている人にとっては、博士後期課程から進学するのは合理的な選択肢であり得ます。特に社会人大学院生として博士号の取得を目指す方は、まずはその道を選択できるよう何らかの形で研究実績を積んでおくのが良いのではないかと思います。
一方で、僕自身はというと、前述の通り博士前期過程に進学し、修士号の取得を経て博士号を取得しました。この選択肢を採ったのは、端的には、博士号取得の方が修士号取得よりずっと困難だからです。そして、仮に博士号を取得できなかったとしても、修士号まで取ることができれば、元々進学した目的である研究プレイヤーとしての実績を残すということに対してゼロではないことができたということになろうと考えたからです。
リアルオプションという考え方があります。ざっくりいうと、最悪ダメでも一定程度の結果にはなる選択を柔軟に積み重ねる方が、ハイリスクハイリターンにチャレンジするよりも効果的である可能性が高いという考え方です。自分自身の進学に関する選択肢の選定基準は、まさにリアルオプション理論に基づくものでしたし、博士号取得を挫折する可能性がかなりの程度あるだろうことから、当初からそれは意識していました。
仕事と学業をどう両立しているのですか?
僕自身は取締役CTOや事業開発部長など会社であれこれと役割を持っています(それが「両立」に対してどの程度のインパクトをもたらす職務なのかはご想像にお任せします)ので、仕事上で大学院に関する活動はほとんどしていません(研究員の中には、仕事上での取り組みと大学院での研究が重なっている人もいます。その辺はやり方次第です)。ですので、基本的には大学院や研究関連の活動は業務外で行なっていました。一方で、前述した通り、目的としては職務上の活動ではありますので、共著や研究会の活動などではペパボ研究所の所長としての活動と一部重なるところはあります。
例えばゲームが大好きな人が、毎日夜中までゲームをしつつ仕事もちゃんとしているという場合、多分それはゲームと仕事を「両立」できているということになるのだと思いますが、そういう意味では「両立」できているのだと思います(し、そういう人に「ゲームと仕事をどうやって両立しているのか」とは質問しない気もします)。一方で、特に2023年に子供が生まれて以降は、6時間以上寝られたことがほぼなかったというぐらいには睡眠時間は削られてきたので、現在健康に特に支障がなく過ごせているのはたまたまなのかもしれません(僕はショートスリーパーではもちろんないですし、学位取得時には48歳といういい年齢ではあります)。
幸いにして、今の立場は「無限に働ける権利」があるおかげで、いつどのように働くかについては相対的に制御を効かせやすいということはあります。そういうわけで、子を保育園に送ったあと日中に会社で日常の仕事をして、寝かしつけた後に深夜まで(時には明け方まで)CTOの仕事をしつつ研究活動もするという、二重生活が可能になっています。気持ち的には楽ではありますが、身体的にはそれなりに負担があります。というわけで、どうやって「両立」しているのかという問いには関しては「気合い」としかいいようがありません。まったくお勧めできるやり方ではありません。
ではどうしたらいいのか?「社会人」であることにレバレッジをかけます。
「社会人」大学院生であることを活かすには
学部からそのまま大学院へ進学し博士課程へ進むというのが、現在においても学位取得を目指す道筋としては一般的だろうと思いますし、今後もそうでしょう。一方で、僕としては社会人大学院生としての道もまた、選択肢として有力であることを主張したいとも思います。多分にポジショントークを含むとは思いますが、そういう選択肢をきちんと確立しておくことが、企業活動に対してはもとより、「リスキリング」が叫ばれる昨今、国力増強のためにもなるのではないかと思います。
そもそも「社会人」であるというのはどういうことでしょうか。企業勤めをしているというのは、ひとえに「仕事」ができる(はず)ということです。研究活動もひとつの「プロジェクト」ではありますので、目的・成果・期限が決まっているという意味では「社会人」がすなる「仕事」と何の変わりもありません。ただ、「社会人」の場合、仕事の進め方をお金をもらえるレベルで陰に陽に身につけている可能性が高いため、研究を進める上でも有利である可能性が高いと思われます。
研究活動はしかし、社会人の仕事と比べて何をやればいいかが自分の裁量に任されていることが多いでしょう。特に博士後期課程ではそうだろうと思います。もちろん、それこそが研究の醍醐味ではあるのですが、一方で、上述したような「仕事」の進め方を十分には体得してない段階でそれをこなすのは、至難の業であるのもまた、大抵の方にとっては事実なのではないでしょうか。そういう意味において、仕事のやり方をある程度身につけた社会人として学業に取り組むことには、かなりのメリットがあると考えます。同じタスクであってもやり方一つで生産性が何倍も変わるというのが仕事のやり方というものだと、社会人の皆さんはよくよく実感していることでしょう。
自分自身を例に、具体的な内容を述べます。先生方はとても忙しいので、なかなか連絡がつかなかったりします。特に社会人大学院生だとリモートでのやりとりが多いでしょう。そういう時には、ゼミなどで同期的に対面した時に、「今からこれこれこういうメールを送るので、内容を精査した上でご返信ください」といってやるべきことを前に進めます。また、研究テーマや論文についても、もちろん方向性は相談しますが、基本的には自らどんどん書き進めていって、進捗を報告、レビューを受けて修正するというやり方で、主体的に進めていきます。
そういうのは、働いていると自然にできるようになっていくものです。もしそういうことができないのであれば、そもそも研究以前に「社会人力」に問題があるのではないかと考えるのがよかろうと思います。おすすめの書物があります。 坂口恭平・原作、道草晴子・画『生きのびるための事務』です。この本ではプロジェクト遂行に必要なあらゆる営みを「事務」と捉え直すことで、飛躍のない、誰にでも実行可能なやり方を具体的かつ実践的に教えてくれます。
博士論文とは、そもそも「事務書類」なのだというのが、「社会人=事務作業員」の認識フレームです。つまり、例えば経費精算のようなことと本質的には変わらない、書類仕事です。もちろん、そのような事務作業を前提としてその上にさらに素晴らしい研究というものが存在しているのでしょう。しかし、それはあくまでもプロジェクトの遂行(関係者との調整、研究プロトコルの確立と実践、フォーマットに基づく論文執筆等)をこなした後に考えたら良いことです。「社会人」であるとは、まずはそういうことが「ちゃんとできる」ということでしょう。そしてそれは、研究活動の基礎となるスキルだろうと思います。
そんなわけで、学位取得を目指す方にとって社会人であることは大いにメリットとなるだろうと考えます。もちろん、時間はありません。ライフステージの変化によって、もっとなくなっていくでしょう。一方で、社会人として「ちゃんとでき」ていれば、少なくとも自分の生活を遂行するだけのお金はあるはずです。時間がないのとお金がないのとどっちが深刻であるかは状況によりますが、一般的にはお金はある方が良いでしょう。つまらない話ですが、そういうメリットもあります。
というわけで、「社会人」というのはひとえにプロジェクト遂行能力がある程度備わっているはずで、かつ、学生さんに比べるとお金そのものの心配を心配しなくて良い可能性が高いのだと思います。時間は相対的に足りないのはしかたないですが、スキルとお金で生産性を高めれば、それなりに追いつけるレベルに達することも、場合によっては可能でしょう。その点を活かさない手はありません。むしろ大いに活用して、社会人大学院生として学位取得を試みる方が増えると良いと思います。
おわりに
この記事では、社会人大学院生として博士(情報科学)を取得した経験に基づいて、研究と仕事との関連について述べてみました。まだまだいい足りていないことがたくさんあるのですが、2025年4月25日に下記の通りのイベントを開催します。そちらでお話ししたいと思いますので、ピンときた方はぜひご参加いただけると幸いです。
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